10月25日
2009-10-26


 そーいやあ、去年の菊花賞もここ(秋葉原のドトール)で競馬中継聞きながら「馬券当たったら、購入するカレンダーを追加しようか」なんて考えてなかったか?するとこの流れは…と気がつくのが遅かった。スリーロールズは買えなかった…でもまあ、POGでガッツリ稼げた(ポイントだけに過ぎないけど)ので、まあ良しとしよう。やはり松山センセは偉大だ。
 競馬系の話題からちと遠ざかっているので、本日はコレで。本日の勝利を記念して、「何故私は松山康久調教師を尊敬するのか」としよう。しょーもない話に終始すると思うけど。
 Q:何故私は松山調教師を尊敬するのか?A:当たり前のことであり、説明の必要を感じない。以上証明終わり…じゃ話が続かない。でも、私に言わせればコレがむしろ当然なんだな。特別な事由がない限り、「国家元首」とか「歴史上の偉人」を尊敬するのがフツーだってのと同様、松山調教師は「尊敬するのが当たり前」の存在だからして。
 「松山調教師は偉大だ」って意識をすり込まれたのは、やはりミスターシービーの管理調教師だったからだと思われる。流石にシンザンの現役時代は競馬見てないので、私が最初に知った「三冠馬」はこの馬だからね。それ以来、「ものすげー偉大な調教師である」ってな認識が埋め込まれ、そのまま今に至っているようだ。
 普通は、競馬を本格的に始めると同時に、この手の「幻想」は崩れる。馬券でヤラれたら文句言いたくなるからね。ただ、私の場合松山調教師だけは「ヤラれたオレが馬鹿だった」としか思わない。どう頑張ってもそうとしか思えないのだ。何故ココまで強固な信仰が形成されたのか、私自身が知りたいくらいだ。
 強いて言うなら、馬の使い方が私にとって「納得のいく」ものだってことか。だけど、そもそも私は「納得のいく馬の使い方」なるものを誰に教わったのかと言えば…松山調教師にってことになる。競馬を始めた当初、松山調教師の馬の使い方を観察し、「コレが正しい馬の使い方なんだな」と学習した記憶があるからなあ。それを疑わずに信じている以上、文句を付ける理由がない。
 他の調教師は、尊敬している方もそうでない方も含めて、何かしらの「根拠」があって自分自身の態度を決めている。果敢なチャレンジ精神や大いに共感できる哲学をお持ちだとか、「どっかがヌケてやがる」とか。でも、松山調教師はそうじゃない。自分の中のスタンダードなのだ。強固にそう確立しているので、「何故尊敬するのか?」ってことすらロクに考えたこともない。キリスト教徒に向かって「何故イエスを尊敬するのか?」と聞くようなモノである。
 最近じゃちょっと影が薄くなってしまった(すごく哀しい…)けど、松山厩舎は名門中の名門である。不思議なことに、今でも「松山厩舎だから」って理由でオッズが下がっているフシがある。若い連中が私のような妄想?を抱いているとは思えないので、ジジイ連中(私含む)が未だにバカスカ馬券買っているからではないかと推測しているんだけど。松山調教師に不満があるとするなら、この「未だ衰えない、なんかスゴい人気」だな。
 とはいえ、私も「松山教」の信者だけに、そこまで支持し続ける理由はわかる気がする。ちょっとやそっとヤラれただけで見捨てたくなるような「甘っちょろい存在」じゃないからねえ。なんつーか…「信じて報われた」とか、「信じてたのに、報われなかった」とか言った理由で態度が変わるような「功利的な信仰」じゃないのだ。馬券が当たろうが外れようが、松山調教師は「松山調教師」であり、尊敬と信仰の対象であり続ける…それが当たり前だと思えるような調教師なんだよ。

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[青(競馬の話題)]

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